第26回
“不能见”bù néng jiàn,“见不到”jiànbudào (安本 真弓)
【相原茂先生:監修】
ある日、学校内で私と中国語上級クラスの某学生との間で次のような何気ない会話が交わされた。
学生:“老师,下次你什么时候来学校?”
“Lǎoshī,xiàcì nǐ shénme shíhòu lái xuéxiào?”
(先生は、つぎいつ学校に来ますか。)
私:“我星期四来。”
“Wǒ xīngqīsì lái.”
(私は、木曜日に来ます。)
学生:“那我不能见你了。”
“Nà wǒ bù néng jiàn nǐ le.”
(それでは、(私はあなたに)会うことができなくなります。)
“Lǎoshī,xiàcì nǐ shénme shíhòu lái xuéxiào?”
(先生は、つぎいつ学校に来ますか。)
私:“我星期四来。”
“Wǒ xīngqīsì lái.”
(私は、木曜日に来ます。)
学生:“那我不能见你了。”
“Nà wǒ bù néng jiàn nǐ le.”
(それでは、(私はあなたに)会うことができなくなります。)
下線部の“不能见”はこの場面ではおかしく、“见不到”を使用するべきである。“不能见”は助動詞による可能表現(助動詞可能と呼ぶ)であり、“见不到”は補語による可能表現(補語可能と呼ぶ)である。この学生に聞いたところ、本人は無意識に使ってしまったとのことだが、これは助動詞可能と補語可能との区別が曖昧だから使い方が間違ってしまった典型例である。
助動詞可能は<動作実現可能>を表わし、その否定形は往々にして動作自体が実行できない、またはその動作を実行したら、何か悪い結果が予想される場合に用いる。以下の例は助動詞可能を使用するのが適切である。
助動詞可能は<動作実現可能>を表わし、その否定形は往々にして動作自体が実行できない、またはその動作を実行したら、何か悪い結果が予想される場合に用いる。以下の例は助動詞可能を使用するのが適切である。
(1)还有,你不能吃鱼,见鱼就吐,究竟是个什么毛病?
Hái yǒu,nǐ bù néng chī yú,jiàn yú jiù tù,jiūjìng shì ge shénme máobìng?
(それに魚が食べられない、見ただけでも吐気がするなんて、いったいどういうこと?)
(2)父亲说太洋气,不能穿。
Fùqin shuō tài yángqì,bù néng chuān.
(親父は、きざ過ぎて着られないという。)
(3)病人是不能买保单的,查出来,保金也不会落实。
Bìngrén shì bù néng mǎi bǎodān de,chá chūlái,bǎojīn yě bú huì luòshí.
(患者は保険証券が買えないのよ。ばれたら、保険金も支払われないのよ。)
Hái yǒu,nǐ bù néng chī yú,jiàn yú jiù tù,jiūjìng shì ge shénme máobìng?
(それに魚が食べられない、見ただけでも吐気がするなんて、いったいどういうこと?)
(2)父亲说太洋气,不能穿。
Fùqin shuō tài yángqì,bù néng chuān.
(親父は、きざ過ぎて着られないという。)
(3)病人是不能买保单的,查出来,保金也不会落实。
Bìngrén shì bù néng mǎi bǎodān de,chá chūlái,bǎojīn yě bú huì luòshí.
(患者は保険証券が買えないのよ。ばれたら、保険金も支払われないのよ。)
例(1)は「魚を食べたら、具合が悪くなる」、例(2)は「着たら、きざ過ぎる」、例(3)は「患者なら保険証券を買っても、保険金がもらえない」などのように、ある動作を実行したら、良い結果にならないことを言う。
しかし、肯定形になると、その動作が実行できることのみを表す。
しかし、肯定形になると、その動作が実行できることのみを表す。
(4)他要说他的菜既不新鲜也不便宜,你还能买吗?
Tā yào shuō tā de cài jì bù xīnxiān yě bù piànyi,nǐ hái néng mǎi ma?
(彼の野菜は新鮮でもなく、安くもないと彼が言っても、あなたはそれでも買うのか。)
(5)她在发烧,今天能去上班吗?
Tā zài fāshāo,jīntiān néng qù shàngbān ma?
(彼女は熱を出しているが、今日は勤めに行けるの。)
Tā yào shuō tā de cài jì bù xīnxiān yě bù piànyi,nǐ hái néng mǎi ma?
(彼の野菜は新鮮でもなく、安くもないと彼が言っても、あなたはそれでも買うのか。)
(5)她在发烧,今天能去上班吗?
Tā zài fāshāo,jīntiān néng qù shàngbān ma?
(彼女は熱を出しているが、今日は勤めに行けるの。)
いずれにしても、助動詞可能は動作を焦点とする。一方、補語可能は「結果出現可能」を表わし、動作を焦点とせず、結果が焦点となり、すなわちある動作を実行したあとに、ある結果が出現できるか否かを問う表現である。
(6)法官周某想不通,到上级法院大喊冤枉。
Fǎguān zhōu mǒu xiǎngbutōng,dào shàngjí fǎyuàn dà hǎi yuānwang.
(裁判官周氏は考えても納得がいかなかったので、上級の裁判所に行って冤罪だと訴えた。)
(7)他们被灰尘遮得叫人看不清楚,宛如迷失在这片荒野里一样。
Tāmen bèi huīchén zhē de jiào rén kànbuqīngchu,yuǎnrú míshī zài zhè piàn Huāngyě li yíyàng.
(彼らはほこりに視界を遮られて前が見えない。あたかもこの荒野に迷い込んだかのような有様である。)
Fǎguān zhōu mǒu xiǎngbutōng,dào shàngjí fǎyuàn dà hǎi yuānwang.
(裁判官周氏は考えても納得がいかなかったので、上級の裁判所に行って冤罪だと訴えた。)
(7)他们被灰尘遮得叫人看不清楚,宛如迷失在这片荒野里一样。
Tāmen bèi huīchén zhē de jiào rén kànbuqīngchu,yuǎnrú míshī zài zhè piàn Huāngyě li yíyàng.
(彼らはほこりに視界を遮られて前が見えない。あたかもこの荒野に迷い込んだかのような有様である。)
例(6)は考えるのみでなく、「考えたすえ、納得する」という結果や、また例(7)は見るのみでなく、「見てはっきりする」という結果などが出現できなかったので、補語可能の否定形で表現する。
(8)那么你告诉我,这种嬉皮鱼哪里吃得到?
Nàme nǐ gàosu wǒ,zhèzhǒng xīpí yú nǎli chīdedào?
(では、このヒッピという魚はどこで食べられるかを教えてくれる。)
(9)记得那次我还是特地排在一个小女孩后面,心想如果她走得过,我也应该走得过。
Jìde nàcì wǒ háishì tèdì pái zài yí ge xiǎo nǚhái hòumian,xīnxiǎng rúguǒ tā zǒudeguò,wǒ yě yīnggāi zǒudeguò.
(覚えているのは、あの時私はやはりある女の子の後ろに並んだことだ。もし彼女が歩いて通れるなら、私も歩いて通れるはずだと心の中で考えた。)
Nàme nǐ gàosu wǒ,zhèzhǒng xīpí yú nǎli chīdedào?
(では、このヒッピという魚はどこで食べられるかを教えてくれる。)
(9)记得那次我还是特地排在一个小女孩后面,心想如果她走得过,我也应该走得过。
Jìde nàcì wǒ háishì tèdì pái zài yí ge xiǎo nǚhái hòumian,xīnxiǎng rúguǒ tā zǒudeguò,wǒ yě yīnggāi zǒudeguò.
(覚えているのは、あの時私はやはりある女の子の後ろに並んだことだ。もし彼女が歩いて通れるなら、私も歩いて通れるはずだと心の中で考えた。)
例(8)は食べるという動作を通して、「ヒッピという魚がおなかに到る」という結果や、例(9)は歩くという動作を通して、「ある場所を通る」という結果などが出現できるので、補語可能の肯定形で表現する。
また、補語可能には「V+“得了”」/「V+“不了”」という構造がある。それも上記同様、<結果実現可能>を表わす。すなわち、ある動作を実行したら、その動作が完了するという結果が出現できるか否かである。例えば:
また、補語可能には「V+“得了”」/「V+“不了”」という構造がある。それも上記同様、<結果実現可能>を表わす。すなわち、ある動作を実行したら、その動作が完了するという結果が出現できるか否かである。例えば:
(10)这么多的房子,你们夫妻俩人怎么住得了?
Zhème duō de fángzi,nǐmen fūqī liǎngrén zěnme zhùdeliǎo?
(こんなたくさん家があったところで、あなた達夫婦ふたりで全部に住めるわけじゃないでしょう。)
(11)上了岁数,许多书想看而看不了,但他的书,我却非读不可。
Shàng le suìshu,xǔduō shū xiǎng kàn ér kànbuliào,dàn tā de shū,wǒ què fēi dú bùkě.
(年を取ったら、本は読みたいがたくさんは読めないのだ。しかし、彼の本は、私は必ず読むようにしている。)
Zhème duō de fángzi,nǐmen fūqī liǎngrén zěnme zhùdeliǎo?
(こんなたくさん家があったところで、あなた達夫婦ふたりで全部に住めるわけじゃないでしょう。)
(11)上了岁数,许多书想看而看不了,但他的书,我却非读不可。
Shàng le suìshu,xǔduō shū xiǎng kàn ér kànbuliào,dàn tā de shū,wǒ què fēi dú bùkě.
(年を取ったら、本は読みたいがたくさんは読めないのだ。しかし、彼の本は、私は必ず読むようにしている。)
例(10)は「たくさんの家」に対して、「住む」という動作が完了するという結果が出て肯定形になるわけである。例(11)は「たくさんの本」に対して、「読む」という動作が完了するという結果が出ないので、否定形になる。そして、<可能>を表す構造の前節に話題としての「モノの数量」に関する語句がある場合、補語可能しか使えないが、そうでない場合、助動詞可能も補語可能も使える可能性がある。例えば:
(12)下雨了,床单洗不了了。(○不能洗)
Xià yǔ le,chuángdān xǐbuliǎo le.
(雨が降ってきて、シーツが洗えなくなった。)
Xià yǔ le,chuángdān xǐbuliǎo le.
(雨が降ってきて、シーツが洗えなくなった。)
では、最後に、冒頭の会話例を説明すると、助動詞可能の“不能见”は“见”(見る)という動作が実行できず、極端な状況として失明している場合、あるいは会ったら悪い事態が起こる場合においてなら使用できる。例文の状況から、学生本人が失明しているや、会うと悪い事態に陥るなど“见”(見る)という動作の実行に影響を及ぼす“不能见”を使用する条件が満たされていないことが分かる。ここでは木曜日にはその学生が学校に来ないため、「あなたに会うことができる」という結果が出現できないので、それを表わす<結果出現可能>である補語可能としての“见不到”を使用するべきであろう。
参考文献:
安本真弓2007,「可能補語の肯定形に関する一考察」,『対照言語学研究』:51-62頁。東京:海山文化研究所。
安本真弓2008,『現代中国語における可能補語の意味分析―生成条件及び助動詞形式との差異をめぐって』,お茶の水女子大学博士論文,日本東京。
参考文献:
安本真弓2007,「可能補語の肯定形に関する一考察」,『対照言語学研究』:51-62頁。東京:海山文化研究所。
安本真弓2008,『現代中国語における可能補語の意味分析―生成条件及び助動詞形式との差異をめぐって』,お茶の水女子大学博士論文,日本東京。







